石橋凌HISTORY

丁度その時期に、イギリスからパンク、ニューウェーブの波が押し寄せてきていた。セックス・ピストルズ、クラッシュ、ストラングラーズ、イアン・デューリー、エルビス・コステロ、グラハム・パーカーといったミュージシャン達だ。ビートルズ、ローリング・ストーンズが第一波としたら、それらは第二波として衝撃的だった。特に歌詞がだった。個人的には黒人音楽がルーツにあるニューウェーブのミュージシャンが好きだったが、自分たちのバンドの形態がスリーピースに歌、というスタイルだったので、パンクバンドの一つとしてみられるケースもあった。当時を振り返えると、純粋に音楽を楽しんでいたというより、自分達が活動出来る土壌作りに毎日奔走し、商業ベースの音楽業界と闘い続けていたという印象が強い。ただ、熱心なファンに支えられ、いつしかライブハウスから、小、中ホール、大ホールへと移行出来、デヴュー10年で武道館に辿り着けた。その間に、海外ミュージシャンの前座もやった。JAPAN、Dr.フィールグッド、チャック・ベリーだ。本物を間近に見れ、聞けて色々と勉強になった。しかし、本質を追求すればする程、自分が想い描く音楽の世界はかけ離れていくばかりだった。中々、茶の間に入っていけない現実。新聞や音楽誌では“社会派バンド” “メッセージ・バンド”という不本意なレッテルを貼られた。イコール売れないバンドだ。ただ、冷静に考えると無理もないのかもしれない。言わずもがな、日本は資本主義国で、TVもラジオもスポンサーで成り立っている。そういう社会の中で、体制批判を歌っていたら煙たがられるのは当然かもしれない。しかし、欧米は違ったのだ。ボブ・ディラン、ジョン・レノンは自由に歌を送り続け、又、メディアも音楽ファンもそれを支持した。文化、民意のレベルの差か? ロック・ミュージシャンというモノの歴史の深さの差か?本質を日本語で歌う事自体無理なのか?何度も何度も壁にぶつかりながら前進してきたつもりだった。その都度乗り越えてきていた壁が、27才の時には、今迄以上に高く、分厚く感じられ、それまでにはない位に心が折れかけていた。色んな意味で限界だった。“もう、ここまでかな、久留米に帰ろうかな”と考え込むような日々が続いた。その時に、又しても大きな運命の出会いがあった。松田優作さんだった。
直感的に、相談にのって貰えるのはこの人しかいない、と思った。

1 2 3 4 5 6