石橋凌HISTORY

1998年、一つの達成感を基に、バンドを再開しようと思った。
ただ7年間の中で音楽の状況も様変わりし、ヒップホップ、グランジ、ミクスチャー、オルタナティブなど、聞き慣れないモノが世にあふれていた。国内でもテクニックもパワーもある、イカシタ良いバンドが多く活躍していた。そこに昔の名声だけを頼りに、同窓会的な復活だけは避けたかった。又、海外での仕事に関わり、俳優や映画人からプロ意識をはじめ多くのものを学んでいたので、旧メンバー、旧スタッフには、再開するにあたり幾つかの条件を箇条書きにし、書面で提示した。
勿論、俳優業も両立していくので、なぁなぁでいい加減な音楽活動は考えられなかった。当然、音楽的には以前よりもパワーアップしていなければ恥ずかしいし、又、ビジネス的にも建設的で発展的な内容の運営でなければ同意出来なかった。これは必須の課題で、これらが守られなければ、以前、解散を覚悟した限界をくり返す事になる。過去の問題点を改善し、努力するという確約をとった上での再スタートだった。個人的には先ず、7年間のブランクを埋める為、声のリハビリ、身体的なトレーニングを始めた。色んな音楽を聞き漁った。
レッド・ホット・チリペッパーズの“カリフォルニケイション”は名盤だった。人のライブにも足を運んだ。アメリカのジミー・スコット、キューバのコンパイ・セグゥンドなどが良かった。それ迄、どちらかといえば苦手だったカラオケも、発声の為に歌うようになった。しかし、数年 進めていく中、それぞれの考えの違いが露呈するばかりだった。何度も何度もミーティングを重ねたが、残念ながら問題点が改善される様子、又、意見が合致する事はなかったので、自分は脱退を決意した。事務所からは、脱退理由は公にしないで欲しいという事だったので、以降10数年、黙して語らずを守り通した。だから、それが誤解を与えたまま、そして釈然としないまま離れていったファンの人達は多かったと思う。それに対しては、心から、本当に申し訳なかったと思う。
しかし、自分は表現者だ。それらを全て飲み込み体現していく事でしか、ファンの人達の理解、共感を得る事は出来ないと信じ、その後も自分なりにベストを尽くしてきた。時間はかかるが“筋を通す”、それが自分の生き方だ。本格的にソロ活動を始めて、約10年になる。自分の音楽のスタイルを、“Neo Retro Music”という名称で提唱している。どこか古く、懐しい匂いがするけど、今の時代に見合った音楽を目指している。おかげさまで、今年10月でデヴュー40周年を迎え、来年3月、4月は全国8ヶ所のツアーを予定している。タイトルは、“淋しい街から”だ。アマチュア時代に、地元 久留米の事を書いた曲で、これ迄も色んなアレンジで歌ってきたナンバーから、今回タイトルを決めた。19才で上京し、色んな事があった。あり過ぎたかもしれない人生だ。その40周年というポイントを、ファンの人達と一緒に楽しく、にぎやかに通過したいと思っている。ファイナルは、我が故郷・久留米で歌う事になっている。現在、自分が想い描くサウンドを見事に具現化してくれる、最高のミュージシャンがサポートしてくれている。深く豊かな音を、これからも追求していくつもりだ。そして、ここ数年、日本の屈指のジャズミュージシャンと一緒にやっているJAZZY SOULというユニットでジャズナンバーに挑戦した、“粋る“というタイトルのアナログ盤を11月にリリースした。久しぶりのレコードだったが、やはりアナログ盤は音が素晴しく良い。そしてジャケットも最高に気に入っている。
もしかしたら、子供の頃から夢見ていた事が、60才を過ぎた今やれているのかもしれない。又、俳優面では、今年参加した映画2作品が来春公開される。これからも、シンガーとして、アクターとして2足のワラジを履き潰す迄、全身全霊で走り続けるつもりだ。
俳優としては、既に海外に進出してきたが、いつかミュージシャンとして、歌い手として、海外のステージに立ってみたいと、夢はふくらむばかりだ。

 

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