石橋凌HISTORY

石橋凌HISTORY

音楽と映画が学校だった

私は、福岡県久留米市京町で、父、母、祖母、4人の兄の8人家族で、末っ子として育った。経済的には非常に厳しい家庭だったが、なぜか家の中にはレコード盤、ギターがあり、4人の兄達の音楽の趣味がバラバラだったということもあって、小学生の頃から色んな音楽を聞いていた。長男は当時、ブラザーズ・フォーや、PP&Mのレコードを聞いたり、ギターを弾き、500マイルやパフといった曲を歌っていた。次男は、ベンチャーズのコピーバンドを組みドラムを担当していた。日本初のエレキブームであり、社会的にはエレキをやっているのは不良と言われた時代だ。2階の座敷にドラム、アンプ類をセットして、テケテケ音を出していると、近所からはガンガン苦情の声が返ってきたものだ。それでもおばあちゃんは、マルタイラーメンを作りバンドメンバーを笑顔でもてなしていた。三男は、自分では一切楽器や歌はやらなかったが、黒人音楽が好きでブルース、R&B、ソウルやジャズ等のレコードを聞いていた。オーティス・レディング、エラ・フィッツジェラルド、ルイ・アームストロングを知ったのは、その頃だ。四男はロックバンドを組み、ヴォーカルでビートルズ、ローリング・ストーンズ、C.C.R等の歌を歌っていた。ギターの3コードを教えてくれたのも、この兄だった。洋楽ばかりでなく、TVからは日本の演歌、歌謡曲、グループサウンズの歌が流れ、ラジオからは日本のフォークソングが流れていた。中学に入ると、親父が病気で他界した。その悲しみを和らげてくれたのも音楽と映画だった。友人と勝手に映研を作りノートに感想を書き、ポスター、パンフレット、そして映画音楽、サントラ盤を集めたりした。エンニオ・モリコーネ、ニーノ・ロータ、ヘンリー・マンシーニ等は、今聞いても素晴らしいと思う。2年生の時だった。3年生を送る会というのが市民会館であり、同級生2人とフォーク・バンドを組み、フォークル・セダーズの“戦争を知らない子供たち”と数曲、コピー曲を歌った。初めて人前で歌ったので、極度の緊張感からか、うっかりカポタストを落してしまい、それが常設マイクがのぼり出てくるステージ上の穴に、見事にコロコロと落ちていってしまった。このホールインワンに、会場からはどっと笑いが沸き、終演後はステージ下にもぐり込み、蜘蛛の巣に汚れながらカポタストを捜した。散々の初ステージだった。高校進学に向け受験勉強を始めても、深夜のラジオの洋楽番組に夢中だった。高校に進むと音研に入り、同級生、先輩とバンドを組んだ。学内の文化祭、コンテスト、コンサート等で歌った。2年生になると、アマチュア・ミュージシャンの登龍門と言われていた、博多のライブハウス照和のオーディションに受かり、最初は平日だったが徐々にお客さんが増え、土・日曜のステージに立つようになった。
プライベートでも、フォークやロックが流れてる喫茶店に居る事が多かった。C.C.R、ドゥービー・ブラザーズ、イーグルス、ロギンス&メッシーナ、トム・ジャンス等が好きだった。当時、博多ではクイーン、ニールヤング&クレイジーホース等の海外アーディストのライブも見れた。そんな音楽浸りの毎日だから、登校してもろくに授業にも出ず、真っ直ぐ音研の部屋に行き、ギターで曲を作り、教室に居たとしても教科書やノートに歌詞を書いていた。

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