石橋凌HISTORY

その頃から、心の中では“絶対にプロになる”、“バンドで生きていきたい”と思うようになっていた。その頃に、後に人生を大きく左右する運命的な出会いがあった。福岡の放送局KBCラジオのディレクター岸川均さんだ。岸川さんは当時、ラジオの生放送でアマチュア・ミュージシャンを紹介する“歌え!若者”という番組を担当されていた。早速、自分たちもデモ・テープを送り、出演のチャンスを得た。初めてKBCのスタジオでお会いした岸川さんは、髪は軽目のパンチパーマで、ストライプのスーツという出立ちでニコリともせず、ピーンと張りつめた空気の中キビキビと現場を仕切っていらっしゃった。
後でわかった事だが、西南学院大学のグリークラブの出身という事もあって、楽器のチューニング、コーラスのピッチには特に厳しい方だった。ただ、2度3度とお会いする内に、プロ、アマチュアと分け隔てなく、又、ロック、フォーク、カントリーと、音楽のジャンルに関係なく、均等にフェアにミュージシャンや人に接する方だという事がわかった。音楽に無償の愛情を捧げた方だった。その時代の博多は、サンハウスをはじめ、本当に上手いミュージシャンがたくさんいた。又、チューリップのように“歌え!若者」”や照和を古巣として上京し成功するバンドもいた。
岸川さんには、番組以外にも色々とチャンスを頂いた。プロのミュージシャンの前座の話だ。チューリップ、ダウンタウン・ブギウギ・バンド、グレープ等だ。その他にも、サンハウス、めんたんぴん、センチメンタル・シティ・ロマンスといったバンドの前座もやった。夢はふくらむばかりだったが高校卒業を機に、就職する人、進学する人でバンドは自然消滅した。それでもプロへの熱は冷めず、アルバイトを転々とし曲を書き続け、再度バンド結成を目指しチャンスを待ち続けた。その間に、2度程、東京からのオファーがあったが、どれもバンドではなくソロでのお誘いだった。どうしてもバンドで上京したいという憧れが強かったので、体よくお断りしていたら、そういう話はパッタリと来なくなった。
17才から約2年間、地元の本格的なイタリアン・レストランで働くようになった。45年程前の話だから、今のようにピザの宅配も、イタメシという言葉もない時代に、イタリアで修行したマスターがやっていた店だった。毎日、カンツォーネが流れる店だったので、ある時マスターに、「サンハウスば、かけてよかですか?」と聞いたら、お客さんがいない休憩時間のみ許された。給料日になると、レコード屋へ通った。その頃は、店員さんがよく新しく入ったばかりのレコードを聞かせてくれ、色々と説明もしてくれた。トム・ウェイツを知ったのもそのおかげだった。彼の3枚目の“スモール・チェンジ”を良く聞いた。その中の一曲 I Wish I Was in New Orleansという歌は、“俺もニューオーリンズに行って、早くいっぱしのシンガーになりてぇーな”という内容だが、New Orleansを東京に置き換えて、自分で口ずさんでいたら、何処か涙が出てきた。
毎日働く厨房の中で、いつしか身体に染み込んだニンニクやオリーブオイルの臭いが、狭いアパートの中にまで漂うような日々が続いた。そんなある日、トム・ウェイツ初来日との情報を耳にした。マスターに「トム・ウェイツば、見に行ってよかですか?」と聞くと、快く早番に回してくれた。ライナーノーツで彼も昔、ピザ屋で働いていたと知っていたので、プレゼント用に自分でピザを2枚焼き、博多の会場へ向った。会場に着くと、知り合いのイヴェンターさんだったので「トム本人に渡してくれ」と預けた。LIVEは最高だった。何とか一目会いたいと、終演後ホールの出口で待っていたら、先程のスタッフに「もう、先に帰ったよ」と言われ、「で、ピザは?」と聞いたら、「あぁ、ゴメン、ゴメン、俺達で食っちゃった」とあっけなかった。

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