自分で働くようになって、聞く音楽も次第に変っていった。ボズ・スキャッグス、アラン・トューサン、マイケル・フランクスやハイトーンヴォイスのジャズシンガー、アル・ジャロウ等だ。後に アル・ジャロウとは、ロサンゼルスのあるバーで偶然会う事が出来、サインを貰ったりもした。ビートルズは、メンバーの中で一番好きだったポール・マッカートニーから、徐々にジョン・レノンの歌詞に強く共感するようになり、ジョンが一番尊敬出来て好きなミュージシャンになった。欧米のミュージシャンの作品を聞くと、一枚のアルバムの中に様々なテーマが歌われていた。男女のラブソング、セックスの歌、家族・友人の歌、労働の歌、世相の歌、戦争の歌…。プロになったら、正直に自分の身の回り、社会の出来事を、日本語で歌っていこうと夢を持ち続けていた。
しかし、チャンスはなかなか巡ってこなかった。マスターからは「もう、ミュージシャンの夢はあきらめなさい。自分と同じくイタリアのシチリアの店で修業したら、将来、出店予定の博多の支店に入ってくれ」と言われていた。コックの道も良いかな、と8割方夢が傾きかけていた頃だった。そこへ、KBCの岸川さんから店へ電話が入った。「東京でA.R.Bというバンドが出来つつある、ヴォーカルのオーディションを受けてみないか!?」という内容だった。自分にとって、もしかしたらこれが最後のチャンスかもしれないと思い、早速マスターに相談したら「行ってきなさい、でもオーディションに落ちたら、シチリアだからね」と、なかなかしつこいマスターだった。オーディションは、渋谷にあるスタジオで行われた。オリジナル曲とカヴァー曲を数曲歌った。通達は数日後だったが、結果、幸運にも合格した。念願だった、プロへ夢が叶ったのだ。合宿所と称したマンション、楽器、楽器車、リハーサル・スタジオ、メジャーなTV・ラジオの仕事。恵まれた環境での船出だった。しかし、初アルバムのレコーディングの際に、事務所に言われたことは「歌詞に一切、社会的、政治的な事を入れるな!」だった。最初は耳を疑った。何もかも用意されて、操り人形になる為に今迄 生きてきたんじゃない、ロック・ミュージックの本質を日本語で歌いたいだけなんだ!と心の中では叫んでいた。結局、“喝!“という、なぜ経済大国と言われるこの国で、こんなにも自殺者が多いんだ!?という内容の歌をアルバムに収録した。その事が事務所の上層部の逆鱗に触れ、そこをクビになった。そして、マネージャーも一緒にやめ、メンバーチェンジをし 独立した。ワンボックス・カーで全国のライブハウスを回る、正にドサ回りの日々が始まったのだ。生活は貧して一変した。アマチュア時代よりも厳しかった。久留米という地方都市だから、物価も安いしバイト代もあった。しかし、プロとして上京したのだから、意地でもバイトはしたくなかった。しかたなく、久留米から持って来ていたレコードや本を売り、質屋通いも覚えた。約1年半以上カップ麺だけの毎日だった。だけど、20代前半の血気盛んな頃だ。いつかゼッタイ見返してやる、とあまり苦にもならなかった。ライブのステージ上から客席を見ると、女性客が殆どだったデヴュー時に比べると、9割近くが男性客で、会場は真っ黒と化した。ワーク・ソングも歌っていたという事もあり、ある東北の街では、会場へ作業着のままタンクローリーで駆けつける人もいた。
石橋凌HISTORY