ある飲み席で、優作さんの前に行き正座してこう言った。
「今、悩んでいます。相談にのって貰えませんか?」
突然で不躾だったにも関わらず、優作さんは「わかった、今度家に来い」と言ってくれたのだった。
それから一週間後、自分達のCD、ビデオ、本等を抱え お宅へ伺い、これまでの経緯を話した。だまって腕を組み、話を聞いてくれていた優作さんは、「お前が今迄やってきた事は分かったが、日本は残念ながら欧米のようなプロデュースシステムが確立されていない。アーティスト自らがセルフプロデュースしていくしかない、コツコツと手を抜かずやり続けていくしかないんだ。ただ、お前が居る音楽のフィールドより、俺が居る映画のフィールドの方がメディアが大きいから、いつか映画でお前の顔、名前を売ったらどうだ!?」と言って下さった。それから半年後、又、お宅に呼ばれて行ったら、“ア・ホーマンス”の台本を渡され、「これ、やってみろ!」と言われた。「これからは、ミュージシャンとか俳優とかいう壁をとっぱらい、一表現者で生きてゆけばいい」とも言われた。優作さんに殴られるのも覚悟して、「では、バンドを茶の間に売る為に、映画を宣伝として捉えていいですか?」と言い、台本を受け取った。優作さんは数秒、間があったが、ニコリと笑い「それでいいよ」と言ってくれた。
結果、映画に参加した事でそれまでの悩みがふっ切れた。奇しくも映画の現場で、自分の考え、感性、センスといったモノが間違っていなかったのだと確信出来たのだ。それからは、もう一度バンドを建て直し、歌っていこうという気持ちになれた。ある時期は、レコーディング、ツアー、大河ドラマ、映画が重なる事があったが、かむしゃらに走り続けた。1989年の優作さんの突然の訃報を聞く迄は……。
自分にとって、恩人、師匠、本当の兄さんのような存在だった人の死は、あまりにも唐突だった。病気の事も、全く知らされていなかったのだ。
それからは、いろんな角度から今後の生き方を考えた。優作さんの仕事に対する姿勢、教えて貰った様々な事、交わした言葉、死の直前に自分が見た夢、スピリチュアルな体験などを総括し、一つの結論を出した。34才になっていた。音楽を封印し、俳優として自分の方法論で、優作さんの遺志を継いでいくと決めた。文字通り、家にあるCD、レコードをクローゼットに仕舞い込んで、人のライブにも行かず、一切音楽を聞かないようにした。少しでも音に触れると、気持ちが揺らぐと思ったのだ。日比谷野音での解散ライブでは、こう言った。「自分が思うところ迄いけたら、又、再開するかもしれない」。
その後は、全く音楽に携わらず国内外の作品に出演した。そして、米国内での参加作品が計4作品になった時に、優作さんの夢のひとつで、目標にされていたSAG(米国映画俳優組合)の会員になれた。7年という時間が流れていた。
石橋凌HISTORY