石橋凌が独断と偏見で久留米の名所スポットをご紹介!
以下のマップから気になるスポットをクリックタップするか、下の一覧から選んでみてください。
- 筑後川
- 水天宮
- 京町小学校
- 梅林寺
- 生家
- JR久留米駅
- 西鉄久留米駅
- 青木繁資料館(旧居)
- 久留米高校
- 城南中学校
- 久留米市役所
- シティプラザホール
- Dreams FM
- 高良山・高良大社
- けしけし山
- 石橋文化センター・美術館
- サーラ・カリーナ
- 五十番
- 鳥喜
- 想夫恋
- THE DRINKER
- 久留米荘
- EIGHT MODERN
- 田中鰻店
- 沖食堂
【筑後川】
私が生まれ育った実家から歩いて約10分のところに流れている川です。
別名・俗称「筑紫二郎」という名前を持ち、当時から一級河川でした。
私がまだ小さいときは、この川に 船頭さんがいる小さな船、いわゆる“ポンポン船”があり、約10分以内で対岸に渡ることができました。
対岸を渡ると、そこはもう佐賀県です。なので、よく佐賀県へ友達と釣りに行った思い出があります。
時々仕事で久留米に帰ると、時間があれば必ずこの筑後川の川辺に立って、色々昔のことを思い出したり、物思いにふけることが多いです。
そしてよくここでは釣りをしてました。
この川の下流が有明海にそそぐため、時々海の魚なんかものぼってきてました。
例えばフグやサヨリ、出世魚であるスズキの前身、セイゴやフッコなんかも釣れていた記憶があります。
高校生の時、学校をさぼってラジカセを持って、イーグルスやドゥービー・ブラザーズを聴きながら釣りをしていた思い出があります。
【水天宮】
水難や学業、安産祈願等の参拝に人々がやってくる神社です。
東京にも水天宮という神社がありますが、この久留米が総本宮だという風に聞いています。
この水天宮で毎年行われる夏祭りで、境内で和太鼓を練習し、その和太鼓のチームで街中を練り歩いた思い出があります。
家から歩いて10分以内のところだったので、よく遊びに行っていました。
そして夏祭りには、出店があったり、お化け屋敷やサーカスだとか色々な娯楽も楽しみにしていた思い出のある神社です。
【京町小学校】
私が通った小学校。
家からは歩いて3分ほどでしたので、朝起きて食事をしたら、すぐに学校に向かっていました。
この小学校では、同級生と一緒によくサッカーや野球をやっていた思い出があります。
【梅林寺】
文字通り梅林がすばらしいお寺です。
春先になるとすごく梅がきれいで、観光地のひとつです。
【生家】
私の生家。実はもう数十年前に火事でここ一帯が火災でなくなって、我が家もなくなって今は駐車場となっていますが、小さい頃はまったく気がつかなかったのですが、青木繁の盟友でありライバルだった画家の坂本繁二郎の資料館(生家)もすぐ近くにあります。
【JR久留米駅】
全国的に国鉄からJRに変わった時期に、ここも同じく「JR 久留米駅」と名前が変更したわけですが、昔は本当に汽車が通って、筑後川に架かる鉄橋を、SL汽車が走っていたのを覚えています。
「淋しい街から」という歌の中で、“陽が沈むと汽車は街に響き“という歌詞がありますが、JR久留米駅が実家から近かったこともあり、その音が聞こえてきていました。
今は新幹線も通る駅になっていますので、博多から十数分で久留米に着きます。
【西鉄久留米駅】
福岡から大牟田を繋ぐ私鉄ですが、この電車に乗って、よく福岡のライブハウス・照和や、KBCラジオの「歌え若者」という番組に出てたのを思い出します。
福岡まではだいたい30〜40分なのですが、久留米を出発して博多までのその車中で、車窓がだんだんだんだんとグレーから色がついていって、グラデーションのようにモノクロからカラフルな色になっていく – 10代の多感なときにはその感覚が非常に刺激的でした。
それほど博多というのは、当時から東京に負けないくらい大きな都市でした。
ですから、この西鉄久留米駅にその夢をたくした、という思い出があります。
【青木繁資料館(旧居)】
「海の幸」「わだつみのいろこの宮」の名作で有名な青木繁の資料館(旧居)があります。私も訪ねましたが、昔 青木繁が育った家を、今は資料館として その複製画を館内に掲げてありますが、これは本当に見る価値があると思います。
20代後半で、不遇の中 死んでいった天才画家・青木繁ですが、もっともっと国内外の世界中の人たちが青木繁の作品に触れることを願っています。
【久留米高校】
私が3年間在籍した学校ですが、非常に自由校でした。
私は当時長髪で、高校に入ってすぐに学校の音楽研究同好会 “音研”に入って、同級生と先輩とアマチュアバンドを組みました。
そういうバンドなんかをやっていても非常に寛大な学校で、特に加月先生という方がすごく理解者で、自分がアマチュアバンドからプロになりたいと話したら、唯一理解してくれた先生でした。
登校してもほとんど教室には行かずに、音研の部室に行って、曲作りをしていたり、たまに教室にいたとしても教科書やノートに歌詞を書いてました。一学年に370名近くいたと思うのですが、私はほとんど後ろの方で、毎回赤点という結果でしたが、なんとか卒業はできました。
【城南中学校】
だいたい実家から歩いて20分くらいのこの中学校へは徒歩で通学していました。当時、国鉄久留米駅の踏切を渡って通学していくわけですが、その学校に行く途中にいくつかのゴム工場があって、そのゴムの匂いが漂う中を通学していたというのが非常に強く思い出としてあります。
入って約2年間は非常に真面目に勉学に励みました。
当時所属していたのは陸上部とバスケット部でしたが、なかなかその体育会系のノリに合わずどちらも途中で辞めてしまいました。そして、友達と勝手に映画研究会“映研”をつくったのもこの中学校でした。
学校の校則として、一人で街に映画館なんかに行ってはいけない、というのがありましたが、先生の目を盗んで、映画を観て、ノートに感想を書いたり、ポスターやパンフレットを集めたり、そしてサントラ盤を集めたりもしていました。
このすぐ近くに、今はもうないのですが、久留米図書館があり、そこで毎日の予習復習をやって、そして館内にあった無料の英会話ルームで、帰国子女の先生と英語の会話を学んだという思い出があります。
【久留米市役所】
2017年から、私は久留米市のふるさと大使に任命されまして、当時の市長さんとお会いし、その任命書なんかもそこで受け取りました。非常にモダンな建物で久留米のランドマークタワーのような存在だと思います。
【シティプラザホール】
以前私が通った城南中学校の近くに、市民会館があったのですが、その小ホールではアマチュアバンドの時によくライブをやっていました。そしてプロデビューした時もバンドで大ホールでライブをした思い出があります。
その市民会館の大ホールが老朽化で取り壊しになって、場所を移し、新しくできたのがシティプラザホールです。
ここの場所は元々、久留米井筒屋デパートでした。創立時代は旭屋百貨店という風に言っていたと記憶していますが、私の母親がその医務室で女医さんとして長い間勤めていたデパートで、その井筒屋のあとにできた久留米シティプラザにあるホールがシティプラザホールです。小・中・大のホールがあって素晴らしいホールです。
ここで以前、鮎川誠さんのシーナ&ロケッツ、それから地元のバンド、ザ・トラベラーズと、私のバンド3つで、こけら落としの一貫としてライブをした思い出があります。そして中ホールでは、久留米出身のジャズピアニスト・田中菜緒子さんのイベントでも歌った思い出があります。
【Dreams FM】
コミュニティーFMです。私も数回もスタジオに呼んでもらって番組に出させてもらいましたが、ここを中心に久留米の名産、それから文化などが発信されている模様です。
【高良山・高良大社】
高良山と筑後川の、山と川にはさまれた平野が久留米市ということになります。
高良山には高良大社という神社があって、お正月に家族でお詣に行った思い出もありますし、学生の頃に学校のハイキングでこの高良山に登った思い出があります。見晴台があるのですが、この見晴台からは筑後川を臨む久留米の街並みを眺めることができます。
【けしけし山】
高良山のある一箇所に、俗称ですが“けしけし山”という山があります。ここは、青木繁の碑が建てられているところで、毎年 青木繁の慰霊祭がここで行われていて、私も一度 呼ばれてその慰霊祭に参加したことがあります。
【石橋文化センター・美術館】
ブリヂストンタイヤの創始者である石橋正二郎さんが建てられた文化センター・美術館です。非常に立派な庭があって、石橋文化ホールというのもあり、
そこでよくアマチュア時代にコンテストやイベントでステージに立った思い出があります。
そしてこの文化センターの一部にリハーサル室があって、例えばクラシックやジャズの人達が公演に来た時に、そこでリハーサルをしたり、準備をするところですが、そこをアマチュア時代に数回リハーサル室で貸してもらった思い出があります。
そして美術館もあり、久留米や九州出身の画家の人たちの作品、また海外の作品なんかも飾ってあって、ここも是非一度訪れてみてもらいたいところです。
【サーラ・カリーナ】
イタリアンレストランです。
ここは当時のオーナーシェフの今井さんから引き継いだお弟子さんが今やっているお店です。
私がアマチュアバンドをやっている17-19歳の時にこのお店の厨房で働いていた経験があります。
当時のお店は今の西鉄久留米駅の裏手じゃなくて、この一番街にあけぼの商店街という商店街がありますが、この近くを流れる池町川という川の傍に、小さいお店でスタートしたのがサーラ・カリーナでした。
厨房は、マスターと料理学校から来ていた研究生、それからアルバイトの私が入ればもういっぱいという小さい店でしたが、マスターがイタリアのシチリアで修行した人で、それこそ50年ほど前から本格的なイタリアンを出しているお店でした。
当時まだピザの宅配もない、イタ飯という言葉もない時代で、‘ピザとは何だろう‘と、お店に入って初めて食べたましたが、その美味さに本当に感動したのを今でも思い出します。
そして結果、プロデビューが決まって、上京してからもそのピザの夢を何度も見たりして、、、それほど思い出深いお店です。
【五十番】
今は西鉄久留米駅から歩いて10分以内のところに移転していますが、当時は別のところにありました。小さい餃子が鉄鍋で出てくるわけですが、全国を色々食べ歩いて、‘今までで一番おいしいんじゃないかな’という感想です。
久留米のイベントで、何度か他のバンドやミュージシャンと一緒になった時に、ここの五十番に連れて行くと、彼らもまた‘日本で一番うまいんじゃないか’と言ってくれたことがあります。
その鉄鍋で、何回もおかわり出来るような、小さいサイズの餃子を出す美味しい店です。
【鳥喜】
九州の名物・名産を出すお店で、有明海で採れる海産物だとかなかなか東京では出会わないような食材をおいています。久留米ならではのお店じゃないかと思います。
ここのオーナーの親戚にあたる方が、東京では、銀座、赤坂、神田、新橋で”有薫”という名前でお店をやっていらっしゃいますが、そこと似たようなメニューがこの鳥喜でも食することができます。昔は今の五十番の隣りにありましたが、移転しました。
【想夫恋】
焼きそば屋さんです。独特の麺を使っていて、ここは久留米に数店舗あると思いますが、東京では、なぜか高島平にあるということを聞いたことがあります。
本当に、一度食べたらやみつきになる味で、久留米はとんこつラーメン発祥の街ですが、この想夫恋の焼きそば(元々はもしかしたら大分発祥の店かもしれませんが)もまた、久留米に帰ってきたら食べたくなります。
【THE DRINKER】
お店に入ると、入り口からカウンターがずっとつづいていて、その奥にステージがあります。アコースティックライブだとか、小規模なバンドだと演奏ができるライブハウスです。私がアマチュアバンドをやっている時から、なかなか久留米にはライブハウスというものがなくて、博多の照和に通った思い出がありますが、最近はこうして久留米にもライブハウスができたことは嬉しいことです。
【久留米荘】
昔あったところからは移転していますが、久留米に帰ると毎回寄りたくなるお店です。値段もそんなに当時から変わっていなくて、そこも感動したのですが、博多にも“博多うどん”というのがありますが、個人的には久留米のうどんが大好きで、例えば“丸天うどん”“ごぼ天うどん“等、色んなものをトッピングして楽しめるお店です。いなり寿司や、それから九州では鶏を炊き込んだごはんを“かしわ飯”と言いますが、かしわ飯のおにぎりを一緒にここのうどんと食べると最高です。
【EIGHT MODERN】
久留米高校に通っていた頃から通っていた喫茶店です。
ジャズ喫茶で、いつもマスターがジャズの名盤を聴かせてくれて、カウンター越しにマスターと色んなことを話した思い出があります。
お店の中には、マスターが描いた油絵なんかが数点掛かっていますが、ジャズ好きのマスターが描くジャズミュージシャンの素敵な絵で、これもひとつのポイントだと思います。
【田中鰻店】
九州・柳川が発祥と聞いていますが、鰻のせいろ蒸しというものがあります。
せいろに入ったうな重のようなもので、特徴は蒸し器でごはんと鰻を蒸して、その上に錦糸卵がのって出てくるわけですが、ごはんの一粒一粒にその出汁がしみ込んでいて、、、 全国で色々な鰻を食べましたが、個人的にはやはり鰻のせいろ蒸しが一番かと思っています。
家から近かったこともあって、何か実家での祝い事だとか特別な日に、ここから出前を注文していました。
熱いほくほくのせいろ蒸しを食べるのが、もう本当に至福の時でした。
【沖食堂】
私が通った城南中学の裏手にあって、塀を乗り越えて 休み時間や授業をさぼって、通っていた食堂です。
今は息子さんが先代を継いでやっていらっしゃいますが、ここのラーメン、焼き飯、それから(今はもうなくなってしまいましたが)“ちゃんどん”と言うラーメンとちゃんぽんの間の子みたいなメニューがあったんですけれど、これも先代の時で終了したようです。
ですが今でもここのラーメンの味につられて帰ると行きたくなるお店です。
最近では、グルメ系のネットで調べた観光客がスーツケースを持って並んでいる様子を見たことがあります。閉店時間も早いので、なるべく時間をチェックして行ってみてください。